2023年あじさい開花情報
小坂公園 由布姫あじさい祭り
開催日程:2023年6月25日(日)~2023年7月23日(日)【終了しました】

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7/23

小坂観音院境内(小坂公園)で4年ぶりに本祭りが行われました。
チアダンスチームのダンスや大正琴など多彩な催し物があり、いつもは厳かな雰囲気の境内がとても賑やかでした✨
振舞いの「由布姫ぜんざい」は土手かぼちゃが入っており、小坂区ならではのぜんざいだそうです!あじさいは全体的には終わりですが、木陰に咲いているあじさいは綺麗に咲いていますよ。

7/19

連日の猛暑日、あじさい達も疲れてきている様子。
枯れている部分も目立つようになり花期も終わりの様です。

7/11

園内全体に花が付き、梅雨時期を鮮やかに彩っています。
とはいえ、花付きが悪い株も見受けられます。(去年よりは開花状況格段と良いですけどね!)

7月4日

青い空、ブルーのあじさい、そして諏訪湖。高台から素敵な景色が広がっています。
先週より開花が進み綺麗に咲いていますよ(^^)/

小坂観音院正門からは樹齢500~700年ともいわれるサワラ並木があり、静寂な空気に身が包まれます。

 

6月26日

昨日(6/25)より「あじさい祭り」始まりました。提灯も飾られています。
現在、園内1/4くらいの開花状況です。今年は去年より花の付きは良いそうなので満開になるのが楽しみですね(^^♪

咲き始め 6月21日

徐々に咲き始めています。諏訪湖を望む高台が彩り鮮やかに飾られるのはいつ頃になるでしょう。

つぼみ 6月14日

梅雨入りし嫌な時期ではありますが雨に映えるあじさいシーズンです。小坂公園のあじさいも
つぼみが増えてきました。中には色づいてきているものも!

 

 

由布姫あじさい祭り 6/25(日)~7/23(日)

岡谷市湊の小坂観音は武田信玄側室、由布姫(湖衣姫)が治療していた場所として伝えられており その供養塔があります。 また、万病を癒す賓頭盧尊者座像(びんずるそんじゃざぞう) 樹齢千四百年と言われるビャクシンの大木、樹齢四百~七百年のサワラ並木があり 木々のなかの凛とした空気が気持ちよく、なんだか心が落ち着きます。 そのすぐとなり小坂公園では毎年7月ごろ八百株ものアジサイが咲き誇ります。 諏訪湖を望む高台で彩り鮮やかなアジサイをぜひご覧ください。

あじさい祭りチラシ

【祭り期間中の臨時駐車】
普通車:小坂公民館横 (公園入口 階段まで徒歩6分)

大型バスの駐車場、進入経路は事前にお問い合わせください。
なお、バス乗降場所は味澤製絲㈱様のスペースをご利用いただけます。※長時間の駐車はご遠慮ください。(公園入口 階段まで徒歩3分)

【お問い合わせ】
岡谷市商業観光課 TEL 0266-23-4811
岡谷市観光協会 TEL 0266-23-4854
小坂公民館(午前中のみ) TEL 0266-23-9730

2023 あじさい

7/19   開花ピークも過ぎ、枯れている部分も目立つように・・・

 

7/12 梅雨時期を鮮やかに彩る

 

7/4 徐々に開花がすすみ見頃に

6/26 7/23(日)まで「あじさい祭り」開催中。
まだ全体の1/4ほどの開花です。

 

6/21 咲き始めました!

 

6/14 つぼみをつけた株が増えてきました。中には色づいているものも(^^♪

 

① 鶴峯公園

~中部日本一のつつじの名所~

かつてこの公園は、蔓根・蔓根崎という字であった場所で、小学校があった場所です。

片倉組初代片倉兼太郎は、低年齢従業員への教育の重要性を感じここに小学校を建設することにしました。初代片倉兼太郎は、校舎の竣工を見ずに逝去しますが、二代兼太郎その遺志を継いで大正6年に完成させました。翌年には地区内同業者の願いにより、その従業員も受け入れました。工場法改正で未修了者の就労がなくなると、大正11年以降青年学校として社会教育に活用されました。

学校として使用されていたこの地が、公園化され「鶴峯」という名前になったのは昭和になってからのことです。昭和元年、片倉合名会社が噴水を作り鶴峯公園と呼ばれるようになりました。昭和4年には片倉組初代片倉兼太郎の銅像が建立されます。この銅像は戦時中に金属供出し、しばらくは台座だけが残されていましたが、平成15年に有志によって復元されました。

昭和10年、一町歩(10,000平方メートル)に及ぶ一帯が片倉から川岸村に寄付されました。村ではこれを記念して、園内に300株のつつじを植える事にしました。 そこで、つつじを埼玉県安行から購入しましたが、安行側の勘違いで貨車3台分(約30,000株)のつつじが送られてきました。 そのつつじの量に村中は大騒ぎ。だが返品もできず、青年会や商業会、村民の有志が何日もかかって植え込みました。 つまり、この”勘違い”がつつじの名所を生んだのです。 戦後、鶴峯公園管理委員会を設置、本格的な整備が進められ、中部日本一のつつじの名所となりました。 園内を埋め尽くすつつじは、30種余り、3万株。実に見事で最盛期にはつつじ祭りが開かれます。

岡谷市の市花にもなっているつつじ。 一口につつじといってもたくさんの種類があり、花の色も赤、白、橙など様々です。  鶴峯公園では、30種類3万株のつつじを有しており、中部日本一の名所となっています。

 

開花時期 ・・・ 5月初旬から中旬

鶴峯公園では、毎年5月初旬から中旬にかけて、つつじ祭り が開催され、たくさんの観光客でにぎわいます。 春のお花見も良いですが、初夏の陽気と、色とりどりのつつじに囲まれるのも、また風情があり華やかな気分になれるのではないでしょうか。

住所
岡谷市川岸上3丁目13
アクセス情報
【車】
・中央自動車道–岡谷IC–約15分
・中央自動車道–諏訪IC–約25分
【電車】
・JR中央本線–岡谷駅下車–タクシーで約5分(約2km)

② 旧片倉組事務所

~かつて日本最大の製糸工場片倉組の本部事務所~

かつて、名実ともに日本最大の製糸工場だった片倉組の本部事務所。事務所は明治43年に建築されました。国登録有形文化財。

片倉市助は、明治6年(1873)に自宅の前庭の小屋を使って10人繰の座繰製糸をはじめました。長男である初代片倉兼太郎は明治11年(1878)に川岸村(現岡谷市三沢)の垣外地籍に、器械製糸垣外製糸場32釜を設立、操業を開始しました。明治23年には、松本に松本製糸場38釜を設立、27年には、川岸村に新たな製糸工場三全社360釜を操業しました。28年には片倉組を組織して本部を三全社に置きます。30年には県外に進出、東京京橋に東京支店を出し、大正9年に片倉製糸紡績株式会社となり、経営の近代化を進めました。このとき、製糸工場数18箇所、釜数11,930、日本一の規模でした。

その後、全国1県に1工場を目標に事業の拡大を図り、名実ともに日本最大の製糸工場に発展、昭和の大恐慌も乗り切り、現在は片倉工業株式会社として発展しています。

片倉組本部事務所は明治43年(1910)、片倉組発祥の地垣外製糸場内に本部事務所として建設されました。本社が東京に移っても片倉組の本部事務所として残り、戦後印刷部局が独立して中央印刷株式会社となって引き継がれ、今もなお事務所として往時の姿をそのまま残しています。

木造2階建て瓦葺き(現在は銅板葺き)、間口13.6m、奥行き24.5m。明治後期から大正期の木骨鉄網コンクリートレンガ張りの特徴を良く遺しており、製糸工場事務所建築の貴重な遺産です。平成8年に国の登録有形文化財に認定されました。これは登録制度が始まって1回目のことであり、貴重な建物であることがうかがわれます。

【豆知識】 富岡製糸場と片倉

あまり知られていない話ですが、昭和14年に群馬県富岡製糸場も片倉の所有となり、昭和62年まで自動操糸機によって操業していました。

住所
岡谷市川岸上1-1-20

③ 旧林家住宅

~製糸家林国蔵の居宅 経営の営みを伝える~

製糸家であり実業家であった初代林国蔵の居宅。茶室と洋室が隣り合わせに接し、金唐革紙の和室がある貴重な文化遺産。国重要文化財。

初代林国蔵は、糸商人だった父林倉太郎の後を継いで製糸業に乗り出しました。明治9年に、平野村天竜川畔に官営富岡製糸場を模して20人繰器械製糸場をつくり、天竜製糸場と称します。明治12年片倉兼太郎、尾澤金左衛門と共に開明社を組織し、共同揚返場を設けるなど製糸技術の改良を図りました。

林国蔵はまれにみる実業家で、製糸業のほか、明治24年には鉄砲店を経営、鉄砲の製造販売を行いました。また、このころ製糸燃料不足が問題となるや諏訪薪炭株式会社を創設し、横川御料林の払い下げを受けたり、東筑摩郡西条炭の炭鉱採掘、また常磐炭鉱採掘もおこない、さらに通信業にも関わるとともに、中央東線開通運動にも奔走するなど公共のために尽力しました。

住宅は、イチヤマカ林製糸所の工場敷地の北側にありました。主屋と離れの座敷、茶室、洋館に分かれ、主屋の南側には繭倉庫の形式をとどめる土蔵が並んでいます。とくに希少価値が高いのは、西洋装飾の芸術、「幻の金唐革紙」と呼ばれる壁紙が張り巡らされている離れの2階の和室です。金唐革紙は欧米の建物の壁紙として輸入されていたもので、和室に使われることは一般になかったことです。天井・壁・襖・床の間の壁に全て金唐革紙が張り巡らされており、荘厳な雰囲気を演出しています。全国的にも貴重で、保存のよさもあり、「今はすっかり忘れ去られてしまった金唐革紙の宝庫として日本の近代建築史上にきわめて重要な価値をもつ」という評価も得ています。

また、迎賓館的な位置づけの離れである洋館は商談相手やお客様をもてなすために、洒落たつくりになっています。洋館の玄関が公的な、事業上の来客の玄関でした。洋館の玄関ホールに入ると、右に小さな扉があります。この扉を開けると・・・なんと茶室が!西洋式の玄関から入ってきたお客様にちょっと驚いてもらうユニークな心遣いです。!

お問い合わせ先
岡谷市生涯学習課(0266-23-4811(内線1233))
住所
岡谷市御倉町2-20
電話番号
0266-22-2330
定休日
毎週水曜日、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)
営業時間
9:00~16:30(12月~2月末は10:00~15:00まで)
※冬期の11月4日~3月31日は土日祝日のみの開館となります。
入館料
おとな590円、こども270円、
(団体10人以上の場合 おとな 380円、こども110円)
諏訪郡内6市町村小中学生・岡谷市内在住在学高校生は無料
HP
https://www.city.okaya.lg.jp/soshikikarasagasu/bijutsukokokan/643/441/442/7192.html

④ 成田公園

~製糸業発展に大きく貢献した黒沢鷹次郎の銅像~

明治18年に地元の有志がこの地の山の神の祠のそばに不動尊石像を祀り不動信仰がはじまりました。その後、祀堂を建て、不動明王を迎え、奥の院を建て、石造三十六童子像が安置されました。天竜川に臨み、眺望も良いためもあり、参詣者が次第に多くなったので、大正6年に昭和天皇の立太子の記念に桜を植えて公園作られました。

明治以降の岡谷において、重要な信仰の地であったこの地は、市内を見下ろすことができました。製糸工場の従業員の休息の場にもなり、休日になると工女たちでにぎわっていたようです。

園内南西側の平地には、第十九銀行頭取、諏訪倉庫株式会社社長として活躍した黒沢鷹次郎の銅像があります。明治30年から平野村に支店を置いていた第十九銀行の頭取であった黒沢鷹次郎は当時の常識を破り動産(原料繭)担保の融資で製糸業者を支援しました。また、債権の保全と繭の品質向上のため、明治42年1月、自ら諏訪倉庫建設に着手しました。第1次世界大戦の後、不況に見舞われた岡谷の製糸業界は黒沢の金融政策によって救われ、更なる躍進を遂げたのです。

黒沢鷹次郎の功績をたたえる銅像は、公園開園に際して建てられたものの戦時下の昭和18年に供出、長年礎石だけが残されていましたが、黒沢鷹次郎生誕150年の平成11年、諏訪倉庫が八十二銀行の協賛で復元しました。

住所
岡谷市成田町1-7
アクセス情報
【車】
・中央自動車道–岡谷IC–約10分
・中央自動車道–諏訪IC–約25分
【電車】
・JR中央本線–岡谷駅下車–タクシーで約1分

⑤ 丸山タンク

~製糸工場の水不足を解消する~

生糸の製造には大量の水が必要で、さらに水質の善し悪しが生産性や品質に大きく影響しました。そのため、良質な水を豊富に確保することは製糸業発展の生命線でした。明治中期以降、製糸工場の規模が飛躍的に拡大すると、諏訪湖や天竜川河畔に大工場が集まる一方で、新屋敷などでは水不足が深刻化していました。

大正3年、製糸用水の供給を目的に結成された「丸山製糸水道組合」では折りしも時代が水車から電力への移行期を迎えていたことを受け、天竜川からポンプで水を揚げ、湖岸から650m離れ、湖面より20m高い丸山に貯水する大規模な揚水施設の設置に着手。タンクは同年10月に竣工し、塚間川以西の製糸業地帯へ潤沢な給水を可能にしました。

タンクは外周約38m、高さ約2m、壁の厚さは60cm強あり、内側には砂利混じりの粗いコンクリート造りの環状壁を二重に内包しています。給水能力は1日14時間稼働で1400立方メートル、製糸場3,530釜の需用に対応していました。

お問い合わせ先
岡谷市役所 商業観光課(0266-23-4811)
住所
岡谷市中央町1-10

⑥ 旧山一林組製糸事務所・守衛所

~糸都岡谷の歴史と新たなシルクブランを伝える~

大正10年に建築された旧山一林組製糸株式会社の事務所棟と守衛所建物です。国登録有形文化財。

山一林組製糸は明治12年創業で、岡谷でも5指に入る大製糸工場でした。昭和2年には、市内に本工場314釜、第2工場284釜、第3工場300釜、諏訪郡永明工場356釜、伊那郡伊奈富工場436釜、県外にも埼玉県熊谷工場320釜、千葉県我孫子工場365釜、静岡県沼津工場540釜、愛知県稲沢工場551釜の合計9工場3,966釜という全国第6位の釜数を誇る大工場でした。昭和4年には林組製糸株式会社、23年にミハト製糸株式会社、36年信栄工業株式会社として精密業に変わり、47年に閉業しました。

山一が後世に語られる時、昭和2年に製糸工女の争議舞台になった「山一争議」を抜きにはできません。同争議は戦前の製糸工場争議では国内最大級であり、19日間に及びました。当時は経済状況が悪く、国内各地で争議が発生した時代でした。今日、現存する事務所・守衛所建物と塀の一部は当時のままで、歴史景観の一部が今に残されている貴重な生き証人であるといえます。

大正10年に建てられた事務所は、全盛期の製糸業をしのぶ数少ない建物として貴重です。木造2階建て、外観は洋風ですが屋根は和瓦で葺かれており、寄せ棟屋根の正面は切り妻破風の屋根を掛け、変化がつけられています。外壁は茶色のタイルが前面に貼られ、柱型が洗い出し仕上げ、外部開口窓は上げ下げ窓で、基礎部分は石貼りで仕上げてあり、一見すると鉄筋コンクリート造りにも見えます。

現在は、絹工房として、絹織物研修・制作に利用されています。「岡谷絹」は、その洗練されたデザインと手織り独特の風合いから新たなシルクブランドとして注目を集めている。岡谷絹を実際に自分で織ることができる機織り体験(要予約)や各種製品の販売コーナーが見どころ。

お問い合わせ先
岡谷市役所 商業観光課(0266-23-4811)
住所
岡谷市中央町1-13-17
定休日
岡谷絹工房:毎週月・水・木・金曜日、盆時期、年末年始
営業時間
9時30分~16時まで
入館料
機織り体験  2000円 約30分 材料費込み

⑦ ㊉(まるじゅう)アートコクーン〈元金上繭倉庫〉

~製糸業のシンボルの一つ繭倉庫~

製糸工場の原料繭は購入してから繰糸までの間、貯蔵が必要です。機械製糸発足の当初は、繭は居宅の2階か土蔵に置くのが普通でした。しかし、従来の土蔵は換気が悪くカビが生じる心配がありました。また、明治18年に尾澤金左衛門宅で火災が起こり、繭を焼失し大損害を被ったことから、繭専門の倉庫を建築する動きが高まりました。昭和初年には市内合計105棟の繭倉庫が存在し、白壁土蔵造りの4・5層から6層の建物は幾百もの煙突と共にシルク岡谷の象徴となっていました。

この繭倉庫は、旧サスダイ中村甫助製糸所の繭蔵であった建物で、卸業の㈱金上が昭和32年に敷地ごと譲り受け、令和3年まで倉庫兼事務所として使用していました。間口8間、奥行5間の3階建て。白漆喰塗り仕上げの木骨土蔵造りで、切妻造りの大屋根には当初、諏訪地方特産の「鉄平石」が葺かれていました。繭の自然乾燥に適した多窓式や、3階建ての規模から明治前期の建設と推定され、繭倉庫草創期の古い形式が見て取れます。各窓には鉄の雨戸がつけられていましたが、太平洋戦争中に供出、現在は軒と木柵が独特の表情を作っています。

その後、岡谷市に現存する希少な3階建て繭倉庫の保存・活用するため、一級建築士事務所・総合建設業の㈱サイトが譲り受け、柱や梁(はり)など構造材を生かしながら構造補強をして木造2階建てに改修しました。建物がある敷地一帯を「㊉(まるじゅう)アートコクーン」と名付け、リノベーションした繭蔵にはレコード店が入っている。

外観見学OK
レコード店「CELLAR RECORDS」営業時間13:00~20:00(火・水曜定休)中は店内見学可。

住所
岡谷市本町2-5-7
駐車場
店舗東側の道路向駐車場 12台

⑧ 蚕霊供養塔(照光寺)

~製糸発展のために犠牲になった蚕の霊を慰める~

蚕霊供養塔が建立されたのは昭和9年です。この当時の岡谷地方は、世界不況のあおりを受け、製糸工場は休業・倒産するところが多くありました。人々は職を失い、路頭に迷う者も出るなど、経済の咲紀域にも心を痛める状態でした。

こうした折、製糸業関係者は製糸発展のために犠牲になった蚕の霊を慰め、蚕神を祀り蚕糸業の発展を祈念するため、蚕霊供養塔建立を思い立ち、各界に呼びかけました。諏訪製糸研究会会長小口善重ほか18名が発起人として選ばれ、建設費を人々の寄付に頼りました。その結果3万人にも及ぶ人々からの浄財を得て建立の運びとなりました。

建立地は製糸家の多くが檀家でもあった照光寺境内と定め、昭和9年7月28日着工、11月15日竣工しました。総工費は5千円(当時)であったといいます。

供養塔は総ヒノキ造りで、銅板葺きの二重塔、基壇積石14尺四方、高さ5尺の美濃石を使い、堂塔建築様式の組物である三手先(屋根を支え軒を飾る3段の木組み)とし、緩やかな勾配、古風な宝輪・水煙共に優美です。

本尊は馬鳴菩薩で、木造総高1尺5寸7分。美濃石の基礎の下には寄付帳(工女の名前や5銭、10銭、等の金額も記載)、建設の経緯を記録した資料、当時の新聞や雑誌などを収めた瓶が埋められていました。

この後蚕霊供養塔奉賛会を結成、昭和10年4月29日第1回の御開帳を行い、以後毎年法要厳修の蚕糸祭を行っています。

住所
岡谷市本町2-6-43