明治30年、旧湊村で生まれた小口太郎は、大正5年三高二部乙に入学。二部の代表クルーとして
琵琶湖での漕艇練習に親しみました。周航を楽しむのが二部クルーの慣例で、
大正6年の三泊四日の周航の時、小口の作詞により「琵琶湖就航の歌」は生まれました。
小口は卒業後、東京帝大理学部物理学科に進み「有線及び無線多重電信電話法」を発明し
東大卒業後は同大学の航空研究所に入ったが病を得、26歳の若さで逝きました。
釜口水門の湊川の公園に、小口太郎の像と琵琶湖就航の歌の碑があります。
明治30年、旧湊村で生まれた小口太郎は、大正5年三高二部乙に入学。二部の代表クルーとして
琵琶湖での漕艇練習に親しみました。周航を楽しむのが二部クルーの慣例で、
大正6年の三泊四日の周航の時、小口の作詞により「琵琶湖就航の歌」は生まれました。
小口は卒業後、東京帝大理学部物理学科に進み「有線及び無線多重電信電話法」を発明し
東大卒業後は同大学の航空研究所に入ったが病を得、26歳の若さで逝きました。
釜口水門の湊川の公園に、小口太郎の像と琵琶湖就航の歌の碑があります。